『もののけ姫』――森と人間、共に生きるためのメッセージ

「生きろ。」

たった一言が、心の奥深くまで響く映画があります。
スタジオジブリの名作『もののけ姫』は、命と自然、人間の営みが複雑に交差する世界を描きながら、観る者一人ひとりに静かな問いを投げかけます。
それは、“この世界でどう生きるのか”という、私たち自身への問いでもあるのです。

目次

あらすじ

遠い昔――人と自然が、まだ深く結びついていた時代。
東の果てにある村で暮らしていた青年アシタカは、村を襲った「タタリ神」を討ったことで呪いを受け、命を蝕む力をその身に宿してしまいます。
村を去ることになった彼は、呪いの原因と未来を見定めるため、西の地へと旅立ちます。

やがてアシタカがたどり着いたのは、製鉄の町・タタラ場。
そこでは、女性たちが力強く働き、エボシという女領主が、病人や社会的弱者に居場所を与えていました。
しかしその繁栄は、森を切り開くことによって築かれたものでした。

一方、深い森にはかつて「神」と呼ばれた獣たちが生きており、山犬に育てられた少女・サンもまた、森を守るために人間と戦っていました。
サンは自らを人間と認めず、森と共に在ることを選びます。

アシタカは、人と自然、どちらにも加担せず、その間に立ち続けます。
誰かの敵にも味方にもならず、ただ「共に生きる」道を探す――それは孤独で、苦しくて、それでも選ぶ価値のある道でした。

『もののけ姫』という問いかけ

この映画の最大の魅力は、誰が「正しい」とも言い切れない世界で、人と自然、命と共存のあり方を深く問いかけてくるところにあると思います。
また、壮大なスケールの映像美と久石譲の音楽が重なり、とても見応えのある作品です。

アシタカはどこにも属さず、「正しさ」ではなく「共に生きる」ことを求めていきます。

何が正しくて、何が間違っているのか?

タタラ場のエボシ御前は、自然を破壊する存在でありながら、重い病を抱え、社会から排除されてきた人々にも居場所と役割を与え、共に生きる道を築こうとしていました。
一方のサンは、森を守るために、人間と戦う道を選んでいます。

どちらかが正義で、どちらかが悪という構図ではない。
『もののけ姫』は、単純な対立の物語ではなく、価値観と価値観のぶつかり合いを描いています。

アシタカの姿は、対立ではなく対話を選ぶ強さを教えてくれます。

「生きる」とは、どういうことか?

物語の終盤、サンはこう言います。

「アシタカは好きだ。でも人間を許すことはできない。」

アシタカは答えます。

「それでもいい。共に生きよう。」

わかり合えないことを認めたうえで、それでも手を取り合おうとするアシタカの姿に、「生きる」ことの本質が詰まっているように思えます。

共に生きることは、意見を揃えることではなく、違いを認めながら隣り合うこと。
その覚悟と優しさが、アシタカのまなざしに込められています。

アシタカの呪い

アシタカは「呪い」という強力で制御できない力を抱えながら旅を続けます。
その呪いは、ただの苦しみではなく、人間が自然に与えた傷そのものであり、彼の命を蝕む危険な力でもあります。

それでも彼は、その呪いを否定することなく、受け入れて前に進みます。
自分の命を削る力を抱えたまま、それでも人を助け、森を守ろうとするアシタカの姿は、私たちにこう伝えているようです。

「たとえ呪われたままでも、生きる」

生きることをあきらめないという、静かな意思の表れのように思います。
どんなに苦しくても、必ず進む道はある――
アシタカの姿は、そう信じる力を私たちの中に呼び起こしてくれるのです。

森に潜む神の影──猩々という存在

『もののけ姫』に登場する「猩々(しょうじょう)」は、赤い体毛に覆われた猿のような姿をした、かつて森に神として生きていた存在です。
彼らは今や衰えた力で、森に木を植え、再生しようと試みています。しかしその行動の裏には、深い怒りと諦め、そして狂気にも似た絶望が隠れています。

作中で、猩々は「人間を食べて強くなる」と口にします。
それは単なる獣の本能ではなく、自然を破壊し続ける人間に対する激しい憎悪と、生き残るための追い詰められた願望の表れです。
森に仇なす存在である人間を取り込むことで、自らに力を取り戻そうとする——その行為には、神としての尊厳が失われていく痛ましさも滲んでいます。

彼らは、人間の文明の犠牲となり、仲間を失い、森の支配権すら奪われてきました。
その苦しみが、静かな復讐心として、人間を「喰らう」発想に至らせたのです。

猩々は言葉も不完全で、理性を失いかけています。
しかしその姿には、「生きたい」という本能と、「森を守りたい」という願いが必死に絡まりあっています。

彼らの存在は、自然界の“痛み”そのものであり、人間の持つ欲や矛盾、過ちを容赦なく映し出す鏡でもあるのです。

ジバシリとは何者か?

ジバシリとは、森の中で密かに活動する猟師の集団です。
彼らは、エボシ御前に雇われて森の神々を狩る任務を担っており、サンや動物たちからは「森を汚す存在」として敵視されています。

物語の中で、彼らは「シシ神の首」を奪うという極めて重大な役割を果たします。
その行為は、自然の神聖なバランスを壊し、世界に大きな混乱をもたらすきっかけとなりました。

ジバシリは、単なる「悪役」ではありません。
しかし、報酬や命令に従って動くその姿からは、「自然との関係が断たれた人間」の象徴のような印象も受けます。

彼らの存在は、自然を「資源」として扱い、神聖なものを「力」として利用しようとする人間のあり方を、静かに問いかけているのかもしれません。

なぜシシ神を狙うのか

シシ神が狙われる理由は、「その首に不老不死の力が宿る」と信じられていたからです。

エボシ御前がシシ神を狙うのは、国家権力と繋がる密命を帯びていたから。彼女は朝廷から依頼を受け、シシ神の首を手に入れることで、タタラ場とその人々の未来を守ろうとしていたとも考えられます。

一方で、ジコ坊たちは、「不老不死の力」という欲望を正当化し、自然の神であるシシ神を単なる力の源として扱う存在です。彼らの行動には、自然や命への敬意はほとんど感じられず、人間の欲望の極みとも言えるでしょう。

つまり、シシ神を狙う理由には、
• 権力への接近
• 不老不死という欲望
• 自然を支配しようとする人間の傲慢さ

が複雑に絡んでいるのです。

山犬の神・モロが教えてくれること

山犬の神・モロは、ただ強いだけの存在ではありません。
彼女は、サンの育ての親であり、森を見守る母であり、そして何よりも“すべてを見抜いている者”として存在します。

アシタカに放ったあの一言――

「お前にサンを救えるか!」

この言葉には、3つの深い意味が込められているように思います。

① 本当にサンを理解できるのか?

人間でありながら森に生きるサンの孤独を、アシタカは本当に受け止められるのか。モロは、その“覚悟”を試していたのです。

② 人間に“救う”資格があるのか?

森を壊し続けてきた人間が、「救う」と口にすることの傲慢さを、モロは見抜いていました。だからこそ、アシタカに“人間としての限界”を突きつけたのです。

③ 愛する者を託す“母の葛藤”

森の終わりが近づく中で、モロはサンを誰かに託すしかないと悟っています。

けれど、それが本当に正しいのか――母としての苦しみが、この一言に込められていたのです。

モロの存在は、「強さ」や「正しさ」では測れない、深くて柔らかな“愛”の象徴です。

それでも、人は生きていく

たとえすべてを失っても、物語のラストでアシタカとサンは、それぞれの場所で生きていくことを選びます。

サンは森に生き、アシタカは人間の町へ戻る。
別々の道を選んだふたりが、最後に「また会おう」と約束する場面は、
たとえすべてをわかり合えなくても、つながり続けることはできる――
そんな小さな希望を静かに伝えてくれます。

それは、私たちが生きる現実と重なるもの。
違う意見、違う立場、違う価値観――それでも、一緒に生きていけるかもしれない。

音楽が、魂に触れてくる

『もののけ姫』の音楽は、言葉を超えて心を揺さぶってきます。
作曲は久石譲さん。静けさと激しさ、美しさと哀しさが、ひとつの旋律の中に宿っています。

特に印象的なのが、アシタカの旅路を描いた「アシタカせっ記」。
打ちひしがれながらも前に進む――その姿を、言葉ではなく音で描いたこの楽曲は、聴くだけで胸が熱くなります。

また、サンが登場するシーンでは、どこか人間離れした神秘的な旋律が流れ、彼女が“森そのもの”であることを感じさせます。
自然と人、人と人の間にあるものを、音楽が見えない糸のように繋いでくれているのです。

この映画に、言葉では言い表せない“深さ”があるとしたら――
それは、久石譲さんの音楽が、登場人物たちの心の奥にある想いを、そっと私たちに届けてくれているからかもしれません。

おわりに

アシタカは、重い呪いを背負いながらも、その運命に抗うように旅を続けます。
森と人との争いに巻き込まれ、どちらからも理解されず、時に孤独に立たされても――彼は決してあきらめません。

相手を敵と決めつけず、話を聞き、想いを受け止め、傷ついた世界の中に「希望の橋」を架けようとします。

その姿は、「どうせ変わらない」と投げ出したくなるような現実の中で、それでもなお前を向く強さを私たちに思い出させてくれます。
アシタカのあきらめない姿勢は、誰かと本当に向き合うこと、自分の信じる道を選ぶことの大切さを、静かに教えてくれるのです。

『もののけ姫』は、ただのファンタジーでも、環境問題を描いただけの物語でもありません。
それは、私たち自身に向けた“生き方の問い”です。

● 消えない痛みがあっても、
心に傷を抱えていても、迷いながらでも――
あなたは、そのままで生きていい。

● どこかに苦しみを抱えていても、
過去にとらわれていても、立ち止まりながらでも――
あなたは、自分のままで歩いていい。

● 誰にも見えない、言えない痛みがあっても、
不完全なままでも――
あなたには、歩む道がある。

いろんな個性がある、いろんな世界がある、いろんな価値観がある。

わかりあうことは難しいかもしれない、わかりあえないかも知れない。

だけど、どんな境遇にあっても、いつも葛藤していても、心は負けるな、生きる希望を持て、と私たちに伝えているように感じます。

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